「大袈裟」と「大雑把」の区別がつかない者が、かつての私の知り人にありました。

「手の平を反す」とか「的を得る」などは、多くの人が気づかない言葉の誤用であったりもいたしますな。

賢しぶった人間が、誤用をいくつも披露する姿は哀れを誘うものですが、ネットの書き込みには頻繁に見られます。

知らぬは一生の恥とも申しますが、言葉を多少間違っても成仏はできます。

ただし、仏法用語の誤用はいかがなものかと思え、仏説を誤って捉えるは、成仏どころか堕地獄の確率のほうが高いでしょうな。

バカキチ犯罪集団顕正会においては、「現証」という言葉を凡そ謗法的に誤用します。

現証とは、文証、理証に裏打ちされるところの、現実に起きる証拠であります。

すなわち仏説が正しいことの証拠ですな。

もし悪現証が顕れれば、仏説に違う何らかの行動や想いがその人にあったということの証明になります。

現証に似た言葉に「現象」がありますが、仏説の裏打ちがあるなしにかかわらず、眼前に示される現実の出来事のことを指します。

世間に一般的に使われる言葉ですから仏説を考えに入れていないのはむしろ当然のことですが、要するに、仏説を容れない顕正会では、現証ではなく現象と言うのが正しいのです。

にもかかわらず、やれアリーナ席が当たっただとか10円拾っただとか、男がホモダチ(相手はノンケ)に遊んでもらっただとかが「功徳の現証」だと言うことは謗法になりますぞ。

そもそも、功徳という言葉も、仏説にかなう思いや行いに裏打ちされていなければ起こり得ませんので、顕正会員は、いかに馬鹿といえども仏を懼れる心あるならば、今日只今より功徳だ現証だはやめることですな。

苦毒、眩傷とでも当てなおしなさい。
それならその行為自体は謗法にはならんよ。

仏説を知らず、「御書は浅い先生にしか解らない」と嘯き御書を読まない言い訳にすることも謗法です。

なんとなれば、仏説に無いからです。

御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事(日興遺誡置文)

御在世当時の在家信徒方に宛てたお手紙は、何故に我々がその趣意を理解できないのか、ちゃんと説明しなさい。

仏説を知らず、日蓮大聖人からの正統の化儀を知らず、猿真似も世法では自由でしょうが、仏法では罪悪となります。

陰では謗るくせに、なぜどうして証拠はと訊かれると答えられずに逃げ惑う計り知れないほどの馬鹿。

不義堆積地倦憔会に改称しなさい。

富士大石寺を詐称する時点で大謗法ですからな。