涅槃経に云はく「法に依って人に依らざれ」云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還って仏法を滅す(三世諸仏総勘文教相廃立)

依法不依人にお触れあそばされた御金言はほかにも拝することができますが、仏法を教える立場にある(と自称する)人が、法に照らして誤った言説をなしたときは、それを信じてはならず法に依って正邪を分別せよという御指南であります。

御在世当時の仏教者のほとんどは、仏説に違う謬説を教え習い、結果として師弟子共に不幸になり地獄に堕ちることになります。
sのことをお嘆きあそばされていることを簡明な言葉でお示しです。

もちろん、この状況は現時においても変わりませんし、むしろ、日蓮宗などの邪宗派は増え、顕正会、池田創価学会といった在家の分際で仏法を標榜する連中までが加わり、ますます濁世の様相を増しています。
これらは皆仏法破壊者であり、世を救うことなど絶対にできません。

これらは皆、自分勝手な我説を仏説と偽り教える邪師が煽動する痛ましき集団であります。

ところが、顕正会では、依法不依人を猊下様を否定するために用います。

大罪ここに極まれりです。

釈尊も大聖人も、邪師に従ってはいけないとか、上記の如く人を信じないで法に依って判断せよとか、たびたび仰せでいらっしゃいます。
が、猊下を人として見てはいけません。

猊下は人ではもちろんあらせられますが、三宝の一分であらせられることのほうがより重要です。

これが解らないのは、宗教的センスがあまりにも欠けているためと知るべきです。

三宝は宝と言うくらいですから絶対の存在です。
これを弁えないで仏教と言うなかれです。

顕正会は仏教ではなくただの新興宗教ですと言い直しなさい。ニセ仏教であると。
それが君らの社会的義務です。

もう一度言いますが、猊下は人であることよりも三宝であることが仏法上は優先です。

三宝一体ですから、日顕猊下を謗り日亨猊下は貴ぶとか、猊下は貶すが大御本尊は崇めるとか、それでは信仰として全く成り立ちません。

言うまでもなく、相承に失敗して三宝が欠けるなど、絶対にあり得ません。
これを真顔で主張する者とまでなりますと、宗教的以前に社会人としての基礎的な道理に暗いと言わざるを得ません。

一言で言えば莫迦か狂人です。

もし相承失敗があり得るとしたら、同時に大御本尊も意味をなさないただの板切れになります。
そんなことが絶対にあるわけがありません。

期せずして「絶対」を連呼しあたかも嘘つきか莫迦の様相ですが、三宝は絶対なのですから、適切です。

さらに顕正会は、下記の御金言をも、百点満点と言えるくらいに悪用します。

時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之れを用うべからざる事。
衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事(日興遺誡置文)

これは実は謎を含んだ御文で、日亨猊下は、日興上人の御意をはかりかねると率直にお述べあそばされています。
なんとなれば、大御本尊とも日蓮大聖人とも一体であらせられる御法主上人(総貫首)が、仏法に相違した己義を唱えるわけがないから、と仰せです。

あるいは所謂言葉の綾で、それくらい御金言、文証を第一とせよという御意とも拝することができます。

所詮、御法主上人猊下が己義を構えたなど言い出す輩は、凡そ上慢、我慢の徒輩であり、いつの世にもあるそうした濁った命の出家在家があれば、これを炙り出し処断するための言わばリトマス試験紙ではないのかという説もあります。

いずれにせよ、ここにも依法不依人の御教えが厳然と立っているではありませんか。

ところが、浅井は、日達猊下が「正本堂は御遺命の戒壇堂」と言ったと噛みつき、これが己義であるから日達猊下を用いないと喚いたのです。

さらに、衆議たりといえども貫首はこれを摧くべきなのに、日達猊下は池田大作に阿り、御遺命の戒壇堂と認めてしまった、と言うのです。

そんな事実はどこにもありません。ただの嘘です。

現に、御遺命の戒壇堂と認めてほしい池田大作に対し、猊下は「事の戒壇堂に準じて」と言い直されていますし、公式にもそのように宣言なさっています。

教学が驚くほど苦手な浅井は、「事の戒壇堂」に二義があるという小児でもわかるような簡単なことが最後まで解らなかったのでしょうか、それとも解らない振りをして自説を通したかったのでしょうか。

その自説、これぞまさしく己義ですが、それが国立戒壇です。

確かに勅宣ならびに御教書が無ければ戒壇は建立できませんが、これらは建立の許可書であって国が建ててあげましょうという含意は全くありません。

すっかり騙されているのさ、君らの頭が悪すぎるせいで。

殊に天皇が主権を有していたころは、天皇を折伏すれば国立で戒壇堂が建てられると考え、御三方の猊下が国立戒壇を標榜なさり、日達猊下もこれを踏襲なさったのですが、すでに主権は国民へ移り、また国柱会の標語とも重なるため誤解を生むとして、日達猊下御自らが、この語の使用禁止を定められたのです。

国立戒壇は初めから御遺命などではないので、日達猊下はほかの猊下に背いていませんし己義を構えてもいらっしゃいません。

その証拠に、「国立が御遺命だから国立戒壇を目指すのだ」と仰せになった猊下は御一人もいらっしゃいません。

ここまででたらめなことを言い続ければ、破門になるに決まっています。
国立戒壇という語を使用禁止するとは御宗門の決定事項であり、これに背く考えこそまさしく己義であります。

衆議たりといえども摧かれてしまったわけでありますな。

さて、依法不依人の御教えを悪用しようとして見事に失敗した浅井昭衛ですが、そもそもお前はどうなんだという問いにぶつかります。

顕正会員も依法不依人だと、貫首たりといえどもこれ(貫首)を用いないんだと教わっているのですが、浅井昭衛を絶対の師と立てる顕正会は、依法不依人ではなく”依人不依法”を教え込んでいるのですぞ。

浅井昭衛は僧宝でも何でもない存在です。狸の骨か何かです。
しかるにこれを絶対視するという教えが顕正会。

ならば、「浅井昭衛と雖も仏法に相違して己義を構えば、之れ(浅井昭衛)を用うべからざる事」という教えも併用されなければおかしいですな。

ソンナコトナイダロ!浅いセンセーはゼッタイダー!!

な、ダメだろこりゃ。