東京のCという街にその人はいました。高級住宅地で知られる所です。
駅周辺も何となくおしゃれな雰囲気。でも、街自体は古いので、何となくごみごみしています。
その駅近くの古いマンションに彼女はいました。

彼女はタロットカードを主に使いますが、部屋には全国の神社の神札が貼り巡らされています。
その隣の待合室で、私はしばしば体がゆっくり倒れていくのです。
椅子に腰かけていると、何かに引っ張られるようにお辞儀をするような姿勢になってしまいます。

なぜか思考力が鈍るような感覚が強まり、やがて私は占いをする部屋へ呼び入れられます。

B子さんは人格的には穏やかで、また正直であけっぴろげなところがある、厳かと言うより親しみやすいお姉さんという感じの人でした。

彼女の占いは、実際にとてもよく当たりました。

そのため、私は安くない料金を支払うことを決心しては、たびたび彼女のもとを訪れました。

彼女は、私の性格の傾向や、これまでの運勢なども的確に言い当てます。

ところが、彼女の占いが当たらないことがしばしばありました。

そこで私は訊きました。
「あなたの占いは外れることがありますか」。

彼女はこともなげに、「はいあります」と言いました。

そりゃあ困ると思いました。

なにか現実に引き戻された気分とでも言うのでしょうか、私の頭はやや混乱していました。

そして思い出したのです。
何を?

”彼女の占いが外れたときに私がしていたこと”をです。

それは、お凡そこんな思考です。
「ドンピシャリではなかったが、正反対の結果というわけでもないさ。まあ良しとしよう、意味的には当たったさ!」。

凡そでたらめでしょう笑。

「意味的には当たった」の意味が解りません。

すなわちこういうことなのです。
● 大枚をはたいて今まで信じ利用し続けてきたのだから、今までのことが全部無駄だったとだけは思いたくない(当たったことは何回もある)。

確かに私にとって良いアドバイスともなっていることも多々あり、全く無駄であったわけでもないのでしょうが、占いは当たらなければ意味がありません。

その、最も重要で、きわめて単純な道理、「占いは当たらなければ価値が無い」ということから、目を背ける自分があったのです。

また、B子さんは、霊能や占いということのほかに、経験から来る洞察や、占いのプロとそての巧みな言い回しにも長けていることに気づきます。
しかし、インチキと言うには少々無理がありますし、誰にでもできることかと言えば、そういうわけでもありません。

ところが、料金の値上げを機に、私は彼女を訪れることをやめました。

つまるところ、こんなふうな結論に至ったのです。
● 肝心な占いをしくじられては意味が無い。
● 考えてみれば、私の傾向など、聞くべきことは大方聞き出した感がある。
● 考えてみれば、占ってもらってももらわなくても、人生の航路に大きな影響は無かった(すんでのところで救われたなどの劇的なことは無かった)。
● 当たっていないという事実に対して、客である私が目を背けてやったり過大評価してやったりする必要は無い。

要するに、顕正会員と同じ次元の莫迦だったのですな、私奴も。

最重要の要点は、謬説をも好き好んで肯定しようとする思考の背後に、自分可愛さがあったということ。
今まで信じてきたものを否定する恐さですな。
それはすなわち自分を否定することですからな。
失敗したと思いたくないのです。
莫迦だなダサいなと思いたくないのですよ、自分のことを、できることなら。

それはできますよ、自己洗脳を一生やめなければいいだけのことです。

それで幸せになれるわけがないと気づいた瞬間、勝利への道の入口が私に向かって光を投げました。
それでも、日蓮正宗に出会うまでには、さらに5年という時間がかかりましたが。

顕正会員にはこれが無いのです。
”真実を探求する志向”。