顕正会年表

1904.06.09
(明治37)
後の妙信講講頭・浅井甚兵衛(浅井昭衛の父)愛知県に生まれる。

1926.04
(大正15)
白須郁三に折伏されて浅井甚兵衛は日蓮正宗に入信。
妙光寺(東京都品川区)所属。
1931.11.30
(昭和6)
甚兵衛の長男・浅井昭衛生まれる。
こののち浅井昭衛は16歳のとき日蓮正宗の信心を始めたとされる。。
1942
(昭和17)
妙光寺において住職および信徒らと不仲になった甚兵衛は、勝手に「東京妙信講」を結成。
いずれの寺院にも属さず勝手に折伏もどきの勧誘活動を始め、日蓮正宗から問題視される。
1955
(昭和30)
早瀬日慈御尊能化の勧めにより法道会と合併し法道院(東京都豊島区)が発足。
東京妙信講は自然消滅し、浅井甚兵衛が法道院法華講の初代講頭となる。
1958
(昭和33)
法道院でも独善的な性情を嫌われた浅井甚兵衛は法道院からも飛び出し、妙縁寺(東京都墨田区)に移籍。
ここで「妙信講」が再び始動。
1959.04.05
(昭和34)
『顕正新聞』発刊。

1961.09.01
(昭和36)
機関紙『冨士』発刊。

1962.02
(昭和37)
『冨士』第2号に「国立戒旦は究極の御理想」と記載。
時代錯誤の発言に日蓮正宗内から否定的な意見が出る。
1962.07
(昭和37)
日蓮正宗法華講連合会が発足するも、浅井甚兵衛・昭衛父子は加盟せず。
『冨士』第12号に、事の戒壇建立の地を「天母原」と記載。
学問的にも否定された説であるため日蓮正宗から大いに問題視される。
1964.08
(昭和39)
法華講連合会の方針に従わなかったため、法義への違背ありと認定され日蓮正宗から登山停止処分を下される。
1965.08
(昭和40)
浅井昭衛・妙信講本部長が『冨士』第25号紙上において「すでに広宣流布の時は来ております」と発言。
創価学会・池田大作の”フライング広宣流布達成宣言”を追認した発言となった。
1965.10
(昭和40)
創価学会が推進する正本堂建立の御供養が開始。
妙信講もこれに賛同し講中へも御供養を強く推奨。
1967.07
(昭和42)
「日寛上人戒壇造営基金」に言及。
「日寛上人御在職中に授与された御本尊の冥加料金銀合せて三百両を取り出し、この内の二百両を金座の後藤という人に依頼して吹き立ての小粒金に両替して宮に入れ封印して御宝蔵に納め置き、事の広宣流布の時の本門戒壇造営の基金とされた(『冨士』昭和42年4月号)」。
「国立戒壇」は「国会の議決(憲法改正)」により建立されるならば、なぜ上人様のご篤志による貯金が必要になるのか、理解に苦しむ。
日蓮正宗内での貯金で建てるなら、国会の議決も必要ないのであり、国に判断をゆだねて国が建てる戒壇堂ならば、戒壇堂の所有関係や管理責任がややこしくなるばかりであろう。
1969.08
(昭和44)
「正本堂御供養に際し、日達猊下より袱紗(ふくさ)を賜った」ことを発表(『冨士』8月号)。
正本堂への賛同・御供養が正しい信心と認めていたことがうかがえる。
1970.3.25
(昭和45))
妙信講、『正本堂につき宗務御当局に糾し訴う』を日蓮正宗へ送付。
盟友と思っていた池田大作と不仲となったため、にわかに正本堂に異議を唱えた姿である。
1970.06
(昭和45)
妙信講講員約2000名が6年ぶりの総登山。

1973.03.02
(昭和47)
「日蓮正宗の正統なる所以は実に御本尊と血脈にまします。世に大聖人を尊崇する者多くありとも、この大事を知らねば結果は師敵対謗法の罪に堕する以外にない(『冨士』2月号・浅井本部長発言)。
1974.04
(昭和49)
「妙信講 御登山願い」を提出。
「妙信講は昨年より御登山を宗務院に願い出ておりました。ところが今回、宗務院より正式に「妙信講は国立戒壇を捨てよ。さもなければ登山はさせぬ」と云ってまいりました。 国立戒壇を捨てることを承知すればすぐに取り計らうのだそうであります(『冨士』昭和49年6月号・浅井理事長発言)」。
「国立戒壇」は明治時代以降における臨時の御指南であり御遺命ではないとする日蓮正宗の指導に反発する意識がうかがえる。
1974.4.30
(昭和49)
かつて浅井甚兵衛を法道会へ導いた早瀬総監が、妙信講へ最後通告。
「猊下のご意向として、国立戒壇を唱えるのをやめれば登山を許可する」。
1974.08.12
(昭和49)
日蓮正宗宗務院が、妙信講へ「解散命令」を下す。
総監の諫めにも従わなかった末の重い処分であった。
1974.10
(昭和49)
顕正会男子部70名が創価学会本部(東京都新宿区)を襲撃。
門扉を破壊し館内へ乱入し暴行を働いたため12名が逮捕された。
1974.10
(昭和49)
日蓮正宗御法主・日達上人が、松本日仁師が妙信講へ下げ渡した御本尊を返してもらうよう、同師へ2度目の指示。
日仁師は浅井へ御本尊の返還を求めたが、最後まで浅井は従わなかった(『冨士』2月号)。
御本尊は日蓮正宗から返還を求められた場合に直ちにそれをしなければならない。
1974.11.04
(昭和49)
日蓮正宗宗務院、妙信講幹部33名に「信徒除名」処分。
いわゆる破門である。
1974.12.25
(昭和49)
宗務院は松本日仁を擯斥(ひんせき)に処す。
擯斥は僧侶に対する破門のことで、最も重い処分となる。
御本尊を謗法の徒の手にとどめることはこれほどに重大な過ちなのであろうと推察できる。
1978.03
(昭和53)
埼玉県和光市に「顕正寺」を建設し、擯斥となっていた八木直道を住職に据える。
顕正寺は2003年に廃寺となり、霊廟「典礼院」として存続することになる。
1982.10.09
(昭和57)
「日蓮正宗顕正会」を自称し、浅井昭衛が「会長」に就任。
「あと25年で広宣流布できなければ核戦争で人類は滅亡(『顕正新聞』昭和57年10月15日号)」と記載する。
しかし25年後の2007年を過ぎても人類は滅亡していないし、もちろん広宣流布が成ったとは浅井を含め誰の口からも聞こえない。
1984.04.09
(昭和59)
浅井昭衛の父・甚兵衛死去。
「直達院護法甚道居士」の戒名を付ける。
1990.07.03
(平成2)
浅井昭衛は、横浜アリーナで開催した第25回総会において、「近き将来、日目上人御出現のその日まで、大石寺を清らかに御守護申し上げることこそ、守護付属を受けた日蓮正宗信徒の責務であります」と演説。
また、「百万になれば、日本の広宣流布の終着点が、もうはっきりと見えてまいります。まさに、百万達成こそ、日本の広宣流布のカギであります」とも発言した。
顕正会は日蓮正宗と同体であると強調した姿である。
1996.11.18
(平成8)
「宗教法人顕正会」を登記する。
「日蓮正宗」も「大石寺」も入れさせてはもらえなかったようだ。
1996.12.22
(平成8)
「冨士大石寺顕正会」を自称する。

2004.03.05
(平成16)
突如「塔婆・戒名不要論」を唱える。
「塔婆は一切不要である。御在世においては戒名などはない。熱原の神四郎殿を見よ。顕正会においては戒名などは要らない。御在世に立ち還って、俗名のままでいきたい。いまこのように決めるのは、顕正会は広宣流布の団体だからである(『顕正新聞』平成16年3月5日号)」。
塔婆の御功徳は日蓮大聖人が御書に御指南なさっているのに?
もちろん顕正会員はそんな御書の存在すら知らない。
これまでは顕正会でも塔婆を会員へ販売していたのだから、会員は「不要なもの」に金を払っていたことになる。
2007.08.23
(平成19)
「発足50周年記念幹部大会」を開催。
入場定員10000人の長野Mウェーブ(長野市)に「30000名が集った」と宣伝した。

近年、ネット上で顕正会の知名度は上がり、よほどぼんやりした人(?)でない限り、顕正会に入る人はいなくなっているようです。
しかし、何かのアクシデントとでも言うべきなのか、顕正会の洗脳にかかりハマってしまった人もけっこうたくさんいます。

そういう人たちが本当の自分の道を見つけるために、欠かせないのが”正しい情報の収集”だと思います。

証拠のない事を信じてはいけません。
功徳だの体験だのは、いくらでも嘘が言えます。
信じるに足る証拠があるのは、仏様の直々の御指南だけです。

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